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Mahal Kita 大切なのは言葉じゃない


フィリピン人が語るフィリピン人の愛情表現について。タガログ語を交えてフィリピン人のメンタリティを語ります。

"Mahal kita, mahal kita, hindi ito bola" (マハール キタ、 マハール キタ、 ヒンディ イト ボラ)

これはラジオでよく流れている曲の出だしの歌詞です。たしか1970年代前半にフィリピンの当時の若者が作詞したとどこかのDJが言っていました。

「愛してる、愛してる、お世辞じゃないよ」という意味です。Bola(ボラ)という単語自体はボールのことです。バスケットボールとかソフトボールのボールです。でもこの歌詞は「愛している、愛している、ボールじゃないよ」という意味ではありませんよ。ボラにはもうひとつの意味があります。bola (ボラ)= 「真実ではないが、まるで本当のことにように聞こえる上手い言い方」つまり「お世辞を言う」「社交辞令を言う」という意味があります。ボラボラという表現を聞いたことがありますよね?

「お世辞じゃない」というと「真剣に愛している」という意味に捉えたくもなりますが、フィリピン人の感覚ではちょっと違うんです。心の奥底ではフィリピン人は「そんなのはただの言葉であり、声帯が発する音に過ぎない」ことを知っています。言葉は必ずしも真実の重みを持たなくても良いのです。私達フィリピン人は言葉の操作が非常に巧みです。私達フィリピン人は、聞こえる言葉を全て信じるものではないと考えています。言葉は「軽く扱われるもの」なのです。

特に、口頭レベルの話はゲームです。ちなみに政治家はゲームのマスターです。ケソンやマルコスは国内外の公式な場においてbolaの天才ぶりを発揮しました。

口頭レベルにおいては愛もゲームです。追いかける人と追いかけられる人がいます。どうやって口説き落として、信じてもらうか。文書レベルにおいても、考え方は同じようなものです。フィリピンの書店で一年中ベストセラーとなっているのが「ラブレターの雛型集」なのですからね。タガログ語のですよ。「愛してるよ」という言葉は挨拶のように日常的に使われています。"Hindi ito bola!!"(お世辞じゃないよ!)と言っても、そこには信憑性はありません。

それでは、真実の愛はどこにあるのでしょうか?それは「行動」にあるのです。見え透いたお世辞をいわないこと。愛情の薄っぺらい宣伝をむやみにしないこと。"Wala sa salita; nasa gawa" (ヒンディ サ サリタ; ナサ ガワ  言葉にあるんじゃない。行動にあるんだ)・・・・・

それではどうやったら"hindi ito bola"(お世辞ではない)ことを示せるのでしょうか?フィリピンの文化的背景を考察しなければなりません。西洋に赤いバラを女性にあげる習慣がありますが、私達の文化にも贈り物をする伝統的な習慣があります(pasulubong)。その場所に彼女と一緒にいれなかったけれども、ちゃんと彼女を思い出し、想っていたということを示すために、お土産・ギフトを渡すのです。

結婚36周年を迎え、7人の子供に恵まれたレイテ在住の夫婦の話です。バレンタインデーの朝、夫は妻に"ハッピーバレンタイン"と伝えるのを忘れてしまいました(注:フィリピンではバレンタインデーには男性が女性にギフトをあげます)。妻は「あれ?おかしいな・・?忘れているのかな?」に思いましたがそのうちに思い出すかと思い何もいいませんでした。その夜、彼は少し酔っ払って帰宅しました。今日という日がバレンタインデーであることをすっかり忘れていたのです。夫が服を着替えている時に妻のスリッパが飛んできました。

愛情表現や行為は例え30年以上一緒にいようと期待されるものなのです。

「マハール キタ」を言うだけではいけません。誕生日、バレンタインデー、記念日、彼女のことを想った全ての日にギフトをあげましょう。どんなささやかなものでも構いません。ボラだけの男にならないように。


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